はならかんのおすすめ商品やご案内を掲載いたします。写真をクリックすると大きな画像で見られます。

カテゴリ: archive

menou6











          5世紀・古墳時代   W2.5cm     L4cm     D1.1cm  

          
    詳細・価格はお問い合わせください
     
メールフォームは こちらです






勾玉と言えば、まずひすい製の勾玉を多くの方が連想されるのではないでしょうか。
ひすいが長い間、勾玉の材料として使われてきたことはよくご存じでしょうし、
博物館や美術館で美しいひすい製勾玉をご覧になった方も多いはずです。

ひすい製の勾玉はその多くが弥生時代から古墳時代前半にかけて作られておりました。
ところが、弥生時代の終わり頃から、どういうわけか、
ひすいの代わりにそれ以外の材料も勾玉に使用されるようになります。
弥生時代のガラスに始まり、古墳時代になると碧玉、めのう、水晶、こはくといった、
ひすいではない素材が使われるようになりました。

今回掲載する勾玉もその中のめのうから作られております。
めのうの勾玉は古墳時代前期に生産が始まり、後期以降に大量生産されました。
各地に点在する同じ頃の墳墓や祭祀遺跡から見つかっております。

島根県の出雲大社では平成11~12年に境内の発掘調査が行われ、
古墳時代前期の遺構から形の整っためのう製勾玉が見つかっています。
色合いは透き通るような赤色で、ひすいにも劣らぬ魅力があるようです。

めのうの勾玉には他にも白、黄色、橙などの色調があり、鮮やかな色感はめのう製勾玉の魅力です。
ごく稀に、石目が縞模様や、暈し模様のようにに少し変わった意匠のものも見かけます。

生産地につきましては、奈良県の曽我遺跡と茨城県の烏山遺跡を除くと、
ほぼ出雲周辺にかぎられており、採取された、加工途中の未製品から比較的容易に形の変遷をたどれるそうです。

工房跡の遺跡から、字形状と長方形の未製品が見つかっております。
これは原石を荒割した後の状態なのですが、
どちらも次の工程は腹部の抉りと表面の研磨になります。
腹部の抉り段階での素材の形状によって、
字形状であれば完成品が字状に、長方形ならばの字状になるそうです。
また、古墳時代の中頃を境にこの工程が異なるようで、
その違いにより、おおよその生産時期が分かるとのことです。

字状のめのう製勾玉は古墳時代の前期から中期にかけて生産されており、
形も美しく表面も丁寧に研磨されております。
の字状のめのう製勾玉は古墳時代後期に大量に生産され、
時代が下がるにつれて、表面がやや粗いまま仕上げるものが見られます。








めのう製勾玉           Magatama agate
 5世紀・古墳時代     5th century, midle Kofun period

同時期の瑪瑙製勾玉の出土した遺跡
橿原市一町新沢千塚500号墳
福山市神辺町亀山第1号古墳
城陽市富野中ノ芝 柴山古墳群B2方墳

2017.10.4

 
menou7menou1menou2menou3menou4menou5







s-5257














 L3.0cm   W2.0cm   D0.9cm


   

素直な形の勾玉ですが、色合いが分かりずらくなってしまいました。
実際はもう少し淡く、表面に光沢がございます。
ぜひ実物を見ていただきたいと思います。


ヒスイ製勾玉           Magatama jade
3~6世紀 古墳時代   3-6th century, Kofun period







2018.5.29
s-5244s-5245s-5246s-5247s-5248s-5249s-5258


s-5202














古墳時代  W14cm       H14cm  


鋸歯模様の彩色が施された土師器です。

彩色された埴輪を見たことがあるのですが、
土師器では初めてのことでした。

赤と白の鋸歯文がとても印象的です。


箱には大泉古海と記載されております。
群馬県邑楽郡大泉町古海のことのようで、
古海前原古墳群、古海松塚古墳群がございます。

東京国立博物館蔵の“椅子に座る巫女”は
古海松塚古墳群の中より出土したと伝えられているそうです。

古海松塚11号墳は5世紀中ごろの帆立貝形古墳で、
群馬県では最も古いタイプの人物・動物埴輪が出土しております。

口縁に欠損があり、補修されております。




2018.5.28

s-5203s-5205s-5208


20180207_hanarakan3688











     W5cm     H9.5cm      D3cm     厨子外寸
          


地蔵菩薩は、皆様ご存じのとおりお地蔵さんと呼ばれ、
昔から慣れ親しまれたほとけさまです。
これまで身分に関わらず大変多くの人々から、
どこであってもすべての苦しみから救済してくださるほとけと信仰されてきました。
田植え地蔵、身代わり地蔵、延命地蔵、腹帯地蔵、子守地蔵、将軍地蔵などなど、
鎌倉時代にはすでに多用な地蔵信仰があり、
今に至るまで親しまれてきた歴史がございます。

こちらの地蔵菩薩の像高は4.5cmです。
左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。
体部は素地のまま仕上げられ切金で装飾、
口元と嬰珞は彩色、蓮弁、台座、光背は金泥彩色です。
足先と蓮弁、宝珠を持つ左手ににわずかな疵がございますが、
全体的には状態も良く丁寧に作られております。

一般的に地蔵菩薩の坐像は、
蓮華座の上で足を組み合わせて座る姿が大半ですが、
こちらの地蔵菩薩は左足を前に下げております。
この姿は少し珍しく半跏像とよばれております。
日本では平安時代の終わり頃、盛んに作られていたようです。

敦煌莫高窟の壁画にも頭巾を被った地蔵菩薩が同様に描かれており、
地蔵菩薩の半跏の姿は、形式として大変古いようですが、
なぜその姿で表されたのかは分かっていません。

釈迦の入滅後、弥勒仏が現れるまでの間、
地蔵菩薩が衆生の救済につとめることから、
兜率天で修業中の弥勒菩薩と同じ姿で表されたという説があるとか。


時折、地蔵菩薩に若者の容貌に表されることがあります。
単に造立願主の好みもあると思われますが、
鎌倉時代に“若き僧”のような容姿麗しい姿が好まれていた時期があったようです。

滋賀県愛荘町の仏心寺に伝わる地蔵菩薩は、
右手に錫杖の代わりに矢を持つ姿で表されております。

この地蔵菩薩には、
平諸道の父が合戦の最中、矢を射つくして苦境に立たされ、
氏寺の地蔵菩薩に救いを念じると、“小法師”に姿を変えた地蔵菩薩が現われ、
矢を拾い集め助けてくれたという矢取地蔵の説話も共に伝えられております。

仏になり代わり人々を救済すると信じられた地蔵菩薩には、
この説話のように、その姿を"若き僧""小さき僧"に身を変えて現れ霊験を示すという説話が、
いくつも残されているそうです。

耳にした"若き僧""小さき僧"に身を変えた地蔵菩薩のご加護を受けたく、
地蔵菩薩を"若き僧”のような容姿麗しい姿に造る。そのような背景があったようです。

少々時代が離れておりますが、
こちらのお地蔵さんもなかなか麗しいお顔をされています。
よく見ると、白毫も無いので、ますますお坊さんに見えてきます。





地蔵菩薩坐像         Jizo bosatu zazo(ksitigarbha)
江戸時代                 Edo period 17~19 century



2018.2.23


20180207_hanarakan3691 20180207_hanarakan3692 20180207_hanarakan3696

無題20








普賢菩薩坐像  三尊       
Fugen bosatu za zou san zon
17~19世紀 江戸時代   17~19 century Edo period
W7cm     H6cm      D2.8cm     厨子外寸



普賢菩薩は、単独で祀られることもありますが、
大多数が文殊菩薩と共に釈迦如来の脇持に置かれております。
こちらの厨子仏は普賢菩薩を中心にした三尊。
この三尊の形式は見たことがなく、初めて見る組合わせです。

もしかすると、普賢菩薩を無理やり後から付けたものと疑ってしまうところ…。
注意して右隣りの観音像と見比べていただくと、
顔立ちや髻、衣文、瓔珞の作行きに共通点が見られ、
岩座と台座の接合部分も自然なことから、
間違いなくこの三尊形式に作られたようです。

この観音像につきましては、持物が失われておりますが、聖観音菩薩と思われます。
右手には蕾の蓮華を持っていたようです。左手は指先で花弁を摘むように添えられています。
左隣の愛染明王は後ろの六臂、持物も含め一材から彫りだされており、
頭頂の獅子冠にはしっかり五鈷も付いております。

残念ながら、普賢菩薩の両腕が欠損しています。
厨子の扉も傷んでおり、台座の蓮弁につきましてはほとんど剥落しております。

厨子の内寸は幅6.5×高さ5cmですが、この空間によく納まっていると感心します。
小さいながらも、お顔も優しく、ぜひ実物をルーペでご覧いただきたいと思います。

でも、なぜこの三尊なのか理由は分かりません。








2017.9.26


無題22無題21L-9608L-9611L-9609無題24

↑このページのトップヘ